都島区の豆知識

都島区の広域避難場所

●大阪城公園・毛馬桜之宮公園

位置と地勢

●東経135度31分・北緯34度41分

●概ね平坦で平均海抜5m 
  最高地点は淀川堤の13m

●面積は6.05ku(22区中13位)

●長さ南北4.5q・東西約2q

●面積は大阪市の
  約2.75%のを占める

世帯数・人口

●世帯数43,223
●人口 総数97,253
(男47,725 女49,528)
(平成12年国勢調査より)

町名の由来

地図をみてみる

片町

川沿いの道路の片側(北側)に家並みが連なっていたので古くから片町と呼ばれています

網島町

古くからの漁村で、網が干されていたことからこの地名になりました

東野田町

元東成郡野田村の一部で、明治30年の第一次市域拡張で市域に編入された際、北区野田玉川町(現福島区)に対する北区東成野田となり、同33年東野田となりました

中野町

旧村名 中野村に由来します

善源寺町

中世にこの地域が善源寺荘という荘園があった為という説と、明治40年まで当地に黄檗宗善源寺が存在していたことによると言う説があります。

都島

仁徳天皇の高津宮、孝徳天皇の長柄豊碕宮が当地の近くにあったことによりますが、この付近を宮向島(みやこじま)と称していたことに由来するという説もあります。

友渕町

「住吉大神代記」の長柄船瀬の記述に、長柄船瀬の「西限鞆渕」とあり、この鞆渕が当地付近に該当するとの伝承に由来して鞆(とも)に友の字を当てたことによります。

高倉町

治承4年、譲位後の高倉天皇が厳島行幸の際に立ち寄った川尻の寺江、ならびに福原行幸の時に立ち寄った寺江頓宮が当地に当たるとの伝承から命名されました。

御幸町

高倉町と同じく、高倉天皇の御幸地であったことに由来します

内代町

寛永20年から徳川氏代官の支配地になったことによると考えられています

大東町

当町の発足が大東亜戦争(太平洋戦争)の最中であり、また大阪市東部の新興地域であったことに由来します

毛馬町

天正年間(1573〜1591年)織田氏がこの地に毛馬城を築き布陣したと言う説と、古くは雑草の茂る毛志島と呼ばれ、それが訛って毛馬となったと言う説があります。






都島の歴史

5世紀頃、難波津は大和朝廷の門戸として海外貿易に重要な
役割を演ずるようになり応神天皇は難波の地に行宮(あんぐう)
として大隅宮(おおすみのみや)を営んだとされています。


所在地は確定されていませんが、安閑天皇のとき牧地とされた
大隈島をあて、今の大阪市東淀川区大道あたりではなかったか
といわれています。


次代の仁徳天皇は大和から難波の地に都を移し、上町台地の
北端、難波碕に難波高津宮を造営しました。以後上町台地に
は、6世紀の欽明天皇の祝津宮、孝徳天皇の難波長柄豊崎宮、
奈良時代の聖武天皇の難波宮が営まれ、約150年間日本の
首都として、また副都として古代史上に大きな足跡を残しました。


都島の地域は上町台地の一角、あるいは大隈島の宮廷のち
ょうど向こうの地に当たり、宮向島(みやこじま)が転化して
都島になった
という説が有力です。


また、当時、都は大和、河内、難波を転々としていましたが、難波
に宮廷がなかった時代にも行宮や副都として皇室との関係が深く、
平安時代以降もこのあたりへの天皇の行幸があり、皇室と深い縁
を結んでいました。


こうした関係から当時一般に付近の島々を総称して都島と呼び、
島々が陸続きとなり各地に村落が生まれた後もその呼称が残
った
説もあります。


●奈良時代
都島区域は難波八十島(やそじま)の1つか、淀川・旧大和川河口の
三角州にあたり、葦が一面に生い茂っていて人家はありませんでした。


●10・11世紀頃
荘園ができ、その頃から人が集まり居住したのではないかと言われて
います。


●江戸時代
「天下の台所、大坂」三大市場と称されました。天満青物市場、雑喉
場(ざこば)魚市場、堂島米市場の青物市場発祥の地は都島区です。


町づくりには川が重要視されましたが、大坂の生命とも言われた淀川
は古代から数え切れないほどの洪水を引き起こしました。都島区域も
度々水害に悩まされ、そのため江戸時代に淀川改修が行われました。


都島区域では、淀川が大きくカーブする川崎、天満付近が堀広げられ、
記録によると川崎から難波橋の下流まで約2.12kmにわたって約28m
切り込み、流れをよくしたといいます。


●明治
地図によれば都島区域南部の旧相生町(片町)、網島町、野田町は
町として地名が残っていますが、他は無地名でまだ農林地帯でした。


明治18年、淀川でいままでにない洪水がおこり、これをきっかけに新
淀川大規模計画が行われました。枚方付近の川幅を広げ、佐太(守
口市)〜大阪湾間園長16km、平均幅750mの一直線の運河、新淀
川を開削。同時に新淀川、旧淀川(大川)の分岐点に洗堰(せき)と
毛馬閘門(こうもん)を築造。


これによって相生町(片町)、野田町、網島町は地続きとなりました。
こうして大阪の近代化に大きく貢献したのです。


これを機に都島区域は、友渕は耕地の2/3、毛馬は1/2が会社・工場
の敷地となり、のどかな菜種畑は急速に工場地帯へと変貌していきま
した。


●昭和
昭和12年日中戦争開始。
淀川、寝屋川、城北運河、大川沿いの工場は軍需品の生産が活発に
なり、生活も戦時色が強まってきました。


昭和16年、太平洋戦争開始。
人々は貧困生活を強いられるようになりました。大阪では昭和19年か
ら空襲が始まり、昭和20年6月7日都島区が初めて空襲を受け大被
害を受けます。それによって市内は8割を焼失。人々は疎開し都島区
域の人口は空襲前の17%に減少しました。


太平洋戦争が激しさを加える昭和18年4月1日。大阪市の22区
制実施に伴う7増区の1区として都島区が誕生しました。



そんな中で人々は苦難に耐え、復興のため力を注ぎました。