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都島の歴史
5世紀頃、難波津は大和朝廷の門戸として海外貿易に重要な
役割を演ずるようになり応神天皇は難波の地に行宮(あんぐう)
として大隅宮(おおすみのみや)を営んだとされています。
所在地は確定されていませんが、安閑天皇のとき牧地とされた
大隈島をあて、今の大阪市東淀川区大道あたりではなかったか
といわれています。
次代の仁徳天皇は大和から難波の地に都を移し、上町台地の
北端、難波碕に難波高津宮を造営しました。以後上町台地に
は、6世紀の欽明天皇の祝津宮、孝徳天皇の難波長柄豊崎宮、
奈良時代の聖武天皇の難波宮が営まれ、約150年間日本の
首都として、また副都として古代史上に大きな足跡を残しました。
都島の地域は上町台地の一角、あるいは大隈島の宮廷のち
ょうど向こうの地に当たり、宮向島(みやこじま)が転化して
都島になったという説が有力です。
また、当時、都は大和、河内、難波を転々としていましたが、難波
に宮廷がなかった時代にも行宮や副都として皇室との関係が深く、
平安時代以降もこのあたりへの天皇の行幸があり、皇室と深い縁
を結んでいました。
こうした関係から当時一般に付近の島々を総称して都島と呼び、
島々が陸続きとなり各地に村落が生まれた後もその呼称が残
った説もあります。
●奈良時代
都島区域は難波八十島(やそじま)の1つか、淀川・旧大和川河口の
三角州にあたり、葦が一面に生い茂っていて人家はありませんでした。
●10・11世紀頃
荘園ができ、その頃から人が集まり居住したのではないかと言われて
います。
●江戸時代
「天下の台所、大坂」三大市場と称されました。天満青物市場、雑喉
場(ざこば)魚市場、堂島米市場の青物市場発祥の地は都島区です。
町づくりには川が重要視されましたが、大坂の生命とも言われた淀川
は古代から数え切れないほどの洪水を引き起こしました。都島区域も
度々水害に悩まされ、そのため江戸時代に淀川改修が行われました。
都島区域では、淀川が大きくカーブする川崎、天満付近が堀広げられ、
記録によると川崎から難波橋の下流まで約2.12kmにわたって約28m
切り込み、流れをよくしたといいます。
●明治
地図によれば都島区域南部の旧相生町(片町)、網島町、野田町は
町として地名が残っていますが、他は無地名でまだ農林地帯でした。
明治18年、淀川でいままでにない洪水がおこり、これをきっかけに新
淀川大規模計画が行われました。枚方付近の川幅を広げ、佐太(守
口市)〜大阪湾間園長16km、平均幅750mの一直線の運河、新淀
川を開削。同時に新淀川、旧淀川(大川)の分岐点に洗堰(せき)と
毛馬閘門(こうもん)を築造。
これによって相生町(片町)、野田町、網島町は地続きとなりました。
こうして大阪の近代化に大きく貢献したのです。
これを機に都島区域は、友渕は耕地の2/3、毛馬は1/2が会社・工場
の敷地となり、のどかな菜種畑は急速に工場地帯へと変貌していきま
した。
●昭和
昭和12年日中戦争開始。
淀川、寝屋川、城北運河、大川沿いの工場は軍需品の生産が活発に
なり、生活も戦時色が強まってきました。
昭和16年、太平洋戦争開始。
人々は貧困生活を強いられるようになりました。大阪では昭和19年か
ら空襲が始まり、昭和20年6月7日都島区が初めて空襲を受け大被
害を受けます。それによって市内は8割を焼失。人々は疎開し都島区
域の人口は空襲前の17%に減少しました。
太平洋戦争が激しさを加える昭和18年4月1日。大阪市の22区
制実施に伴う7増区の1区として都島区が誕生しました。
そんな中で人々は苦難に耐え、復興のため力を注ぎました。


